したいのはなし

12月31日。

年末の大掃除で母に諭され、自室の窓を拭いていると、ベランダに一匹の小鳥の死骸を見つけた。

最初は鳥の羽の大きいのが落ちているだけと思ったのがよく見るとその広がりの中にくちばしを見つけた。

ドキリとした。

一体の屍が自分の目の前にいる。

近づいてみると”それ”は驚くほどに薄っぺらで、とても生きて空を飛んでいたことがあったとは思えない程だった。

昨日も一昨日もこの部屋で眠ったはずだのに、小鳥は人目に止まることもないまま、じっとベランダの床に横たわっていたのである。

いつものように空を飛んでいたのが急に具合が悪くなり、ベランダに降り立ち、そのまま弱って死んでしまったのだろうか。

それとも屋根にぶつかり、その衝撃で身体をいため、飛べないままにそこで息絶えたのだろうか。

その小鳥のまだら模様はあまりにも頼りなく、哀しい印象を与えた。

私はすぐ、庭の土に埋めてやろうと思った。

ティッシュを2、3枚手に取り、小鳥にかぶせて拾い上げようとした。

身体が床にこびりついてはがれなかった。

ショックだった。

生きている実体はあたたかかったりやわらかかったりするのに、死体とは驚くほど軽く、乾燥していて”物”のようであった。

やっとのことで死体を持ち上げた時、私の心臓は大きく脈打っていた。

私は心身二元論への疑いを強くした。

この実体に魂が宿っていただけの状態を生と呼ぶのなら、このような感情が湧き上がることはないだろう。

死体を扱うということは、それが鳥や猫や犬であれ、とてもショックなことなのだ。

気味が悪いという表現がぴったりだった。
気持ち悪いというのではなくて、ただ本当に気味が悪いのである。

心の臓が止まり、動かなくなった有機物。

その身体を動かしていたモノとは一体なんだったのか、それは”どこへ行ってしまったのだろうか”。
そんなことを考えると誠に気味が悪いのである。

死は怖い。

自分は死んだことがないからわかるはずがないのだが、きっと他者の死の方が自分自身の死より何十倍も恐ろしい。

死ぬことが怖いんじゃあない、死を見つめることが怖いのだ。

そんなふうに考えながら家の裏に穴を掘った。

小鳥をティッシュにくるめたまま、そこに埋めた。

合掌。