最近思うことについて

ブログを始めたのはなんとなく覚えてはいたけれど、特に思うところもないし誰もみてないし面倒くさいしという理由で約一年近く放置していた。


でもなぜか急に表現したい欲に駆られて筆をとる、もとい、手をキーボードに置く。


表現したいと言っても何か人に伝えたいことができたわけではない。去年は大学1年生だったのが今年は大学2年生になっているのだからとりあえず時間だけは着実に(信用はしていないが)進んでいるようだ。


近頃の私といえばピアノを珍しく狂ったように弾いてみたり、ちゃんと本を読もうと思って読んでみたり、気になるあの子に勇気を出して話しかけてみたり、チキってそれ以上何もしていなかったり、そんな感じです。


ピアノを弾くことについてはとにかく楽しい。表現には昔から拘りがあったけど楽譜を読むという事を初めてしたり、神経を本当に集中させるってこういうことなんだ〜って思いながら一曲弾いただけで脳がヘトヘトになるのを実感したり。メトロノームね、大事。自分のリズム感のなさには薄々気づいていたけどメトロノームちゃんがその狂いっぷりを明確に示してくれました。ありがと、友達になろうか。


本番まであと2週間ですな、仕上がるかな、仕上がるといいな。あと、本番真っ白になりませんように、いや、なってもいいけどね。ベートーベン最高。


ベートーベンについてちょこっとだけ調べてみたけど彼はピアノの下におまるを置き、発狂しながら作曲してたらしいね。うーん、エキセントリック。そりゃああんな旋律を出力しようとしたら気も狂うさあね、むしろそれが正常なんじゃない?かっこいいなあ。


まあとにかくね、悲愴大好きだからあとは弾くだけだわよ。


そして読書は読み終わった時の達成感が堪らないですね。小説とかはまだ続いてて欲しかった〜なんて余韻と哀愁を感じながら読み終えるんですけどね、哲学書を読み終えた時のそれは全く達成感以外の何物でもないです。ええ。今回は内容が内容でしたし、いやはや哲学者ねちっこいよ〜京女なんて比にならんさかい。


『それは私がしたことなのか』ヘビーでした。だいたいが重複だったし、読み進める、ということの困難さは痛感した。もともと本を読むのが遅いですし。

行為、意図が存在するのか?というところから始まり、ねちこちねちこちそれを証明していく本で何の本を読んでいるのかわからなくなりました。道徳の本だよ。でもやっぱ本質に迫るには(本質があると仮定すると)本質の本質に触れなきゃならないしそれをどこまで突き詰めるかということはとても難しい問題なんだよね。それは決して脱線のことではなくて。


それはさておき、やっとのことで読み終わったんだけど最後4,5ページ程度のエピローグにめっちゃいいことがいっぱい書いてあってすっごいよかった、よかった。それは思考実験における世界の均質化の問題点についてだったり、単純化の落ち度についてだったり。


昔母親が世界って複雑に見えるけど実際単純だよね、って言ってたけど私はそうは思えない。まあ、彼女の複雑の想定と私の複雑の想定とが合致していないからかもしれないけどわたしは哲学をやって世界は複雑だなあ〜としみじみ思うようになった。うん、複雑だよ。その複雑さを考えるんだよ、この人間の出来損ないの頭で。無謀〜素敵〜〜!


そんなこんなでいい本でした。おすすめありがとう先生、そして行為論についての論文もありがとう、萌えた。


あとは気になるあの子に話しかけた。本棚の本を見る感じにフェイントかけといて〜の〜「イマナンノベンキョウシテルンデスカッ」


やっちまった〜〜。グズでも口は持っていた。


すんごい丁寧に教えてくれてびびったよ。教え上手ってこういう人のことなんだね。相手が欲していると考えられる情報をいろんな方面からpick up! then tell!すげえ、すげえよ。親切丁寧いい感じ〜♪だよ。ありがとうございますありがとう。単純にイケメンだな〜って気になって話しかけた自分を恥じた。いや、恥じてない、間違ってなかったと確信しただけだ。まだまだ仲良くなりたいな〜挨拶しかしないし。でもマジでチキンだからとりあえず本の感想を伝えるというタスクまでお話は先送りで。はい。あと先生の連絡先聞きたい。


思ってるどうでもいいことをながーくながーくぶちまけたかったんだよね。よかったよかった。達成達成。


ほんじゃまっ。


したいのはなし

12月31日。

年末の大掃除で母に諭され、自室の窓を拭いていると、ベランダに一匹の小鳥の死骸を見つけた。

最初は鳥の羽の大きいのが落ちているだけと思ったのがよく見るとその広がりの中にくちばしを見つけた。

ドキリとした。

一体の屍が自分の目の前にいる。

近づいてみると”それ”は驚くほどに薄っぺらで、とても生きて空を飛んでいたことがあったとは思えない程だった。

昨日も一昨日もこの部屋で眠ったはずだのに、小鳥は人目に止まることもないまま、じっとベランダの床に横たわっていたのである。

いつものように空を飛んでいたのが急に具合が悪くなり、ベランダに降り立ち、そのまま弱って死んでしまったのだろうか。

それとも屋根にぶつかり、その衝撃で身体をいため、飛べないままにそこで息絶えたのだろうか。

その小鳥のまだら模様はあまりにも頼りなく、哀しい印象を与えた。

私はすぐ、庭の土に埋めてやろうと思った。

ティッシュを2、3枚手に取り、小鳥にかぶせて拾い上げようとした。

身体が床にこびりついてはがれなかった。

ショックだった。

生きている実体はあたたかかったりやわらかかったりするのに、死体とは驚くほど軽く、乾燥していて”物”のようであった。

やっとのことで死体を持ち上げた時、私の心臓は大きく脈打っていた。

私は心身二元論への疑いを強くした。

この実体に魂が宿っていただけの状態を生と呼ぶのなら、このような感情が湧き上がることはないだろう。

死体を扱うということは、それが鳥や猫や犬であれ、とてもショックなことなのだ。

気味が悪いという表現がぴったりだった。
気持ち悪いというのではなくて、ただ本当に気味が悪いのである。

心の臓が止まり、動かなくなった有機物。

その身体を動かしていたモノとは一体なんだったのか、それは”どこへ行ってしまったのだろうか”。
そんなことを考えると誠に気味が悪いのである。

死は怖い。

自分は死んだことがないからわかるはずがないのだが、きっと他者の死の方が自分自身の死より何十倍も恐ろしい。

死ぬことが怖いんじゃあない、死を見つめることが怖いのだ。

そんなふうに考えながら家の裏に穴を掘った。

小鳥をティッシュにくるめたまま、そこに埋めた。

合掌。